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wash

アニメの感想メインに、ギャンブルも少々。

試験的に

君の名は。』を観て、作品どうこう以前に先ず考えなければならない問題が浮き彫りになりました。

それは作品に向き合う姿勢について、と書くと大袈裟ですが、そんな雰囲気の得体のしれない虚空を掴んでしまったようで、少し喉が詰まるような感じがします。

まず、いつのまにか、作品を「誰かにしゃべることを前提に」観るというスタンス。これはブログで発信したり、レビューサイトに残しておきたいという、単純に記録的な意味合いもあるし、真摯に作品と向き合いたいというスタンスの表れでもありました。表現者の意図する形で作品を咀嚼したいと思うようになり、人に伝わりやすい言い回しであったり、時にはその文章の恰好までも意識してしまった。

するとどうだろう。面白さや感動。高揚感に制限がかかるようになってしまった。

これは不思議な感覚だった。作品と真摯に向き合おうとしたのは、映像演出の意図を考えたり、知識や頭で理解を深めて行くエンターテイメント性に面白さを見出しはじめていたからだった。理屈や理論で紐解く映像の解釈を読んだり、クリエイター本人がどのような意図で作ったのかを聞くのはとても面白かったから、それを自分でやろうとしはじめたのがきっかけだった。

しかし、どうだろう。

はじめのうちは面白かった。何度も同じ作品を繰り返し見たり、他の考察や解説を読むのも楽しかったはずだった。しかし、みるみる作品にのめり込めなくなって来てしまった。

感情移入することは、自分の唯一の得意分野であった。

それを浅ましいと自分自身で決めつけてしまうようになり、こうして作品の意図やテーマを読み取る方が博学に見える、有識者なんだ、と思うようになった。しかし、どちらが楽しかったのか、楽しめていたのかというと、やはり今よりは昔に思える。

あれだけ感動して泣いたり、とんでもないものを観てしまったという気持ちになれないのは、単純にそういう作品との出会いがないというだけではないのだと思う。

頭で理解している部分では、A作品とB作品ではA作品の方が上なのに、B作品の方が好きだ、観たい。という衝動にかられるようになって、この違和感を覚えてから、どうにも映画を楽しむというのが苦手になってしまった。

結論から言うと、試験的にSNSをやめてみた。

情報の量が極端に減り、時には何かを見逃したり損をした気分になることもあるだろうけれど、それでも楽しいほうがいいのだ。SNSで揺さぶられた好奇心を、SNSで消化するというルーティンは不健康だ。

何かを渇望しているような好奇心や探求心が、作品を一層面白くしてくれるのだと、ようやく気付いた。